[コラム]紫陽花と人生
花の役割
昔、学生時代に梅雨の時期に鎌倉に紫陽花(あじさい)を見に行ったことがあります。
物音一つしないお寺の境内で、そぼふる雨のなか大きな紫陽花が見事に咲いていましたが、何かしらとても、もの哀しい印象を受けた記憶があります。
紫陽花はこのように艶やかな花でありながら、しとしと雨の降る中で咲いているために哀愁を感じてしまうのかもしれません。
その時の自分の心が紫陽花に投影していたのだとも思いますが、何十年経っても紫陽花を見るたびにその時のことが思い出されます。
ちなみに紫の紫陽花の花言葉は、冷淡、無情だそうです。出会う人の受け取りかたは千差万別であるとしても、ある期間、鮮明に記憶に残る印象を与えることができる花には魅力があります。
花には、いったいどれくらいの種類があるのでしょう。
花々は、季節が変われば枯れて、次の季節にはまたその季節に合った次の花が咲きます。
まるで、私たちの心を乱したりまた慰めたり勇気づけるための役割を宇宙から与えられたかのように、次から次へと連鎖をつくりだしているのです。
彼らはそれぞれの地域の生態系のなかで懸命に生きてはいますが、同じ季節であっても微妙に咲く期間を変え、色を変えて私たちの前に現れてくるのは何か不思議な感じがしています。
懸命に生きる
私たち人間も、個性をもち、懸命に運命に抗いながら、また運命を自ら作り出しながら、花よりは長いスパンでありながら、生まれては消え生まれては消えという連鎖を続けています。
「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」は有名な林芙美子の詩ですが、貧しいかったときは言うに及ばず、売れっ子になっても、自分の思う道をがむしゃらに駆け抜けたといわれる彼女が意識していたように、振り返ると人生も同じようなものだなあ、と思います。
私たちを超越する何かの生命体が、私たちの人生を見て、私たちが花に感じていることを、同じように感じていたら、少し怖い気がしますね。
いずれにしても、どこかで怠惰になりがちな私は、常に自らを叱咤し勇気づけていなければ先に進めません。
目標を明確にして、人生は短い、ということを認識したうえで、小さくてもいい一つひとつ花を咲かせるために懸命に生きていかなければならないと、いま思います。[石井友二]
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